ヒーローに憧れていた。
昔からだ。
マスクとスーツを身に纏って、怪人と戦い、街を、子供たちを守る。
そんなヒーローに、憧れていた。
正義とか悪とか、そんな大層な思想を抱いているわけじゃなかった。
けれど、悲しんでいる人がいたら、泣いている人がいたら、苦しんでいる人がいたら。
手を差し延ばしたいと思った。
もし、そんな力があったら。

「なんか、朝から元気ないねー」
昼休み。
学校に着いたのが四限の終わり間際だったから、しょうがない。
コーヒーうめえとか言ってる場合じゃない、そんな気もしていたけれど、しょうがない。
適当に終鈴が鳴るのを待ってから何事もなかったかのように1-7と書かれた教室へ向かい、流石に昼休みだけあって部屋中酷い喧騒(けんそう)だったので、とりあえず自分の席に鞄(かばん)だけ置いてさっさと出てきた。
「まぁ、もう朝って時間じゃないけどさ」
今に至る。
屋上手前の踊り場に備品の机と椅子。
こんなとこに居座るのは、まぁ、ほとんどいない。
俺と、もうひとりを除いては。
「なに、なんかあったの?」
向かいに座って気安い声音で話し掛けるのは、南御(みなみ)理苑(りおん)。
同級生だ。別に友達ってわけじゃないし、ましてや恋人なんかでもないけれど、何となく居心地がいい――多分、お互いに――ということでこうして一緒に昼飯を食べたりしている。
「いやー、朝から自分が死ぬ夢を見たら、そりゃー、な……」
「うわぁ……」
「しかもテレビつけたら今日の運勢が最悪で『今朝見た夢があなたの未来を暗示してるかも』とか言いやがるんだぜ」
「あはははは!」
全く笑いごとじゃなかったけれど、他人の不幸ほど面白いものはなかったりするのも事実。心底おかしそうに笑う様子を見たって、それに腹を立てるのは少しばかり大人気ない。これが他の誰かだったら切れてたけどな。
やりきれない思いを紛らすべく、購買で買ったりんごジュースのパックにストローを差し、側面に力を入れないように角を持って、一口。
広がる爽(さわ)やかな酸味と甘味。
ジュースは果汁一○○パーセントに限る。
「でもさ、どんな夢だったの? ただ死ぬって言っても、いろいろあるでしょ?」
「でっかい牛に轢(ひ)き殺される夢」
「……それはまたなんていうかファンタジーな夢だね」
「トラックくらいの大きさあったからな」
「そんな本ばっか読んでるからそんな夢見るんだよ」
「うるせーこのやろうラノベを馬鹿にするんじゃねー」
「あはははは!」
が、確かに一理あるかもしれない。
そういう発想がなければ、そんな夢を見ることだって、ないはずだ。
「まぁでも」
三角パックの牛乳をストローでちまちまと飲んでいた理苑は、一息つくと、少しだけ真面目な顔をして、言った。
「どんな内容でもさ、結局夢は夢でしょ? そんなに気にすることないと思うなー」
「まぁ、そうなんだけどな」
完全に納得できたわけじゃない。
けれど、それで多少楽になったのは事実だった。
「ありがとな」
だから、ごくごく素直な気持ちを口にした、つもりだったのだが。
「ともりんきもい」
「ともりん言うなっていうかお前、きもいとか言うな」
「ともりんは都守(ともり)だからともりんでいいし、きもいのはきもいよ」
「人が素直になったらこれだ」
「あはははは、分かってないなぁ。素直なともりんがきもいんだってば」
「このやろ」
何をしたって、こいつはこいつなのだ。
俺は呆(あき)れた。
もちろん、それが日常(いつものこと)だったんだけれど。
今更ながら、呆れた。
それは、その夜から始まった。
宵闇(よいやみ)の下を走る影一つ。
夜の静寂(せいじゃく)を切り裂くように、焦燥(しょうそう)の声が響く。
「な……何なんだ、やつは一体……っ!」
息を切らしながら吐き捨て、幾度(いくど)となく後ろを振り返っては、よろめきながらも前へ前へと必死に駆け去ろうとするのは、黒い黒い影。その輪郭はどこか薄ぼけてはっきりしない。
高くそびえるコンクリ壁の塔の間の、狭い路地。灯かりは、月一つ。寝静まったビル街にあっては、あまりに頼りない。
それでも、いずれ闇に目が慣れれば、自ずとその影の姿形の異様さに気付く。
一見、人の形をしているようだが、人とは大きく異なる部分がいくらかある。
最も目立つのは、腰になびく一房の毛のようなもの。走る人影に引っ張られるように、宙空に揺れる。
それから、よく見れば分かることだが、四肢も若干長く感じられる。特にその両の腕は、身を屈めれば地を衝(つ)くこともできそうなほど。
薄ぼけた輪郭は、目を凝らすと、それが暗さのせいだけではないと思い至る。ぼやけているのではない。毛羽立っているのだ。それが毛皮であるのか、体毛であるのかまでは、判然としない。もちろん、いくらなんでも後者はないだろうが、何しろ身に何かを纏っているかどうかさえ、曖昧なのだから。
そして。
視線を、上へと向ければ。
自然、頭が目に入る。その頭には、二つの突起。
角か?
否。
走る動きに合わせ、上下に揺れ、左右に揺られるそれは、おそらくは――、
獣の耳、だろう。
これもやはり毛羽立っている。狼や狐の類いが、ちょうどこういった耳をしていたろうと思う。
いずれの特徴も、一日ばかり遅れてはいやしないか、と言いたいところだが、つまりは、言葉にするなら、これだ。
獣人。
夜のビル街を、獣人の形をした影が走っている。
「何だって、っ……俺がこんな目にっ……」
凍えるビルの隙間で、地を蹴る足音二つと、息遣い一つ。
一つの足音は、獣人の影で、もう一つは。
「遅いよ、お前」
ふと、バラバラだった二つの足音の、そのリズムが少しずつずれていき、そして、重なった。
追い着いたのだ。
「ひぅあっ!?」
あまりの恐怖からだろうか、追い着かれた影は間の抜けた悲鳴をあげる。
あまりの恐怖からだろうか、バランスを崩し、足をもつれさせて地を転がっていく。
「いや、鬼ごっこはおしまいか?──の方が良かったか?」
ふざけたように首を傾げて見せても、影は怯えむしろ畏怖さえしているようにも見える。
「まぁどっちでもいいか。もう眠いし」
「やめ、やめろ……!」
腰が抜けたのだろうか、獣人の影は這うように後ずさっていく。
「明日も学校なんだよなぁー」
ぼやきながらも全く構うことはなく。一歩、また一歩と影に歩み寄っていく。彼我(ひが)の距離はもはや幾許(いくばく)もない。
そこで糸が切れたのだろう。
「う……が、ぅぐ……ぅうあがぁぁぁぁぁぁっ!」
耐え切れなくなったように、影は獣の咆哮(ほうこう)よりもなお凄まじい叫びを──あるいは悲鳴と呼ぶべきかもしれぬ声を──足音が消え静寂を取り戻した夜の街に響かせる。
恐慌状態とはかくや。吠え叫びながら、なりふり構わず四肢を振り回して飛び掛かる。
「ぉ?」
だが。
勢いよく振り下ろしたその漆黒の腕(かいな)は。
鈍い音が響く。
ほんの刹那(せつな)、辺りの空間は固定され時間は停滞する。残響音が掻(か)き消え、夜を再び支配したのは静寂。その中で交錯する一条の漆黒と一本の腕。
「……ふ」
そして、人の肉に過ぎない腕が受け止めた黒い塊は、不敵な笑みとともにいとも簡単に跳ね除けられる。同時に地を蹴り、後退した影との間合いを殺し、影の懐へ。
やがて人の肉に過ぎぬその脚はしなやかに伸びて、一気に蹴り上げられる。一度二度瞬く程の間のことだ、かわす暇(いとま)は全く与えられない。
人型を象(かたど)る黒い影は浮き上がり、宙をしばし彷徨(さまよ)い、重力に引き戻されるように放物線を描いて、冷たく虚ろなビル壁に強く打ち付けられる。
「ぐ……ぁ、ぁ……」
灰色の壁に弾かれ、地に引き寄せられるように堕(お)ち、だがそれでも異形は未だその影を象る輪郭を失わない。
「お、まだ生きてる」
地に伏せたまま顔と思(おぼ)しき部位を起こし震える腕を虚空(こくう)に伸ばす。風前の灯火がごとき様だ。
「貴様……何者、だ……。たかが人間の分際で……何なんだ」
だからこれは、最後の力というやつだろうか。伸ばした手で地を掴むように、もう一方の手で地を押し退(の)けるように。
そしてようやく上半身を起こし、掠(かす)れる声でその続きを吐く。
「一体何なんだ、貴様のその力は!?」
悲痛な響きを伴なう叫び。まるで命を狩りに来た悪魔と対峙(たいじ)したか弱き人間のような。
そしてその問いに対する答えはなく。ただ、無言で脚を大きく振り上げて、
──振り下ろす。
黒い影の頭が潰されひしゃげ、霧散する。呼応するように身体も散り散りに拡がって、溶けるように消えていく。
そしてとうとう、その問いが黒い獣人の断末魔となった。
呟(つぶや)きだけが後に残る。
「……そりゃ俺が聞きたいくらいだが。ていうかお前こそ何だ。たかが人間の分際て」
そう。
俺が。
今しがた獣人を倒し屠(ほふ)った俺こそが、問いたかった。
この力は何なのか。そしてお前は何なのか。
お前は人間以外の何かなのか。いや、そんなことは見れば分かることだが、そうだとするならばそれを倒した俺のこの力もまた、人間以外の何かに由来するとでも。
だが、その問いに対する答えはなく。ただ、静かに夜は更(ふ)けていく。