カーテンの隙間から漏れるぬるい陽射しがまぶた越しに網膜を刺激するのと、アナログの目覚し時計がガタガタ震えながら打ち鳴らす甲高いベルの音が鼓膜を響かせるのとの、そのいずれが早かったのかは判然としないが、浅い眠りにゆめうつつとまどろんでいた俺は、そこでやんわりと覚醒した。
目覚まし時計の短針は真っ直ぐ七を指している。
まだ気だるい身体を起こす。習慣的にそうしているからで、頭は未だもやがかかったように呆けている。
まずは居間兼寝室と一体化した台所で顔を洗う。
蛇口を捻(ひね)ると同時に勢いよくあがる水流の音。少し蛇口を閉めて水圧を弱め、両手に受ける。ぬるい感触の後、手の中で増す水位。手の甲を雫(しずく)が伝(つた)うのを感じて、その水を顔につける。顔面の上を両手が幾度か往復。再び水を受ける。
そんなことを繰り返すうち、もやがかかっていた思考が次第にクリアになってくる。今日は月曜か、とか、じゃあゴミ出しは明日でいいな、といったような雑多な考えが浮かんでは消え、消えては浮かび、また消える。
うちは風呂もトイレも共同だ。当然風呂場などあるはずもなく、洗面所もない。蛇口を閉める。キュという小気味のよい音に、続いて蛇口の残り水が垂れる音が響く。台所にかけられたタオルで顔を拭(ぬぐ)い、意識覚醒完了。
ビバ、ワンルーム。まだ学生の身の自分としては、家賃はできる限り抑えたいのだ。
[……地方では本日より梅雨明けが宣言され、各所で真夏日になる見込みで……]
テレビから断続的に流れる音声。
[……熱中症にはご注意ください。続いて次のニュースです。昨夜未明……]
耳に届くのはいつもどおりのニュース。
アナウンサーのあの特徴的でいて特徴のない声をBGMに、やはりいつもと代わり映(ば)えのしない新聞の見出しに適当に目を通しつつ、ゆったり身支度を整え終える。
後ろ頭に手をやって髪を撫(な)でてみる。だが手に跳ね返る抵抗はない。
寝癖(ねぐせ)がないことを確認し、床に転がるナップサックを引っ掴む。持ち上げた勢いのまま右肩に緩く担ぐ。
ほとんど境目のない玄関。転がる履(は)き慣れた靴。つま先に引っ掛けるようにして履き、潰れた踵(かかと)をまた潰して、そのまま左手で掴(つか)んだドアノブを捻(ひね)る。
開いたドアと玄関の隙間が一瞬にして真白く埋め尽くされ、次の一瞬のうちにそれは部屋の中へと侵蝕(しんしょく)し、そして熱を孕(はら)んだ空気を引き込みながら一気に溢(あふ)れる。
「眩(まぶ)し……」
思わず右腕で顔を覆(おお)う。視界が一段階だけ暗くなる。同時に、腕の普段日に当たらない部分がジリジリと日光に焼かれる。
外へ一歩踏み出すと、まるで違う世界なんじゃないかと思う程の熱気が身体を包む。ちょうどドアのところにその境界線があるようにさえ思える。
さっき部屋に流れ込んできた熱気なんて可愛いものだ。言うなればただのぬるい風。
鍵を掛け、ドアノブを捻る。握った拳を引き寄せる。腕に伝わるのは固い反発。OK、扉は開かない。安アパートを後にする。
顔を上げると鮮やかな青。それだけで少し涼(すず)んだ気がするから不思議だ。
しかしそう言ったところで、やはり今日は暑い。
まだ日はそれ程高くない。だというのに、太陽は『今日から夏』と主張せんばかりに照りつけてくる。
『ちょっと飛ばし過ぎじゃないか』などという、大自然に対する不毛な不満をふと思うよりも早く脳裏に浮かんだのは、この陽射しの中を歩くことになるであろう一人の知人であり友人であり幼馴染(おさななじ)みでありそして従妹であるところの──。
「あ」
噂をすれば、か。
道の先に頼りない少女の影。横顔。頭の左でゆらゆら揺れるサイドポニー。それを留める装飾銀に陽光が反射して、思わず目を細めた。
「おはよう、由葵(ゆうき)くん」
耳に届くのは聞き慣れた声。細くそれでいて柔らかい、透(す)き通るような澄(す)んだ声。
聞く人によっては弱々しくも感じるかもしれないが、その実彼女は別にどこが具合が悪かったりするわけではなく、これが普通で、これがいつもどおり。しかしながらいつ聞いたって不安を誘う声だ。
頼りなげで儚(はかな)げな、そんなイメージ。「あえかな」という文語を使うならきっと彼女みたいなののことを言うんだと思う。ときどき放っておいたらどこかに行ってしまうんじゃないか──そんな心地にさせるのだ。
もちろん長いこと一緒にいてそんなことになったことは一度もないし、基本的に寂しがりの彼女がそんなことをするわけもない。ただ、不安な気持ちを抱かせるような雰囲気を持っている、それは間違いない。朝昼夕に関係なくいつも眠そうにしているその表情も関係あるのかもしれない。いや、ないか。
さて、そんな彼女だけど、今日は思ったよりは平気そうだ。
「由葵くん? ……どうしたの?」
ところがむしろ彼女の方が不安な表情で俺を見ていた。そういえば、ああ、まだ返事をしていなかった。
「あ……いや、何でもない。おはよう、杏音(あんね)。道端(みちばた)で倒れてやしないかと心配したよ」
近付きながら声を掛ける。そのまま隣に並び、ゆっくり歩き出す。
俺より頭一つ分くらい背の小さいこれが従妹。藤浦杏音(ふじうらあんね)。従妹って言っても学年は一緒。それから俺の方が先に生まれたから従妹。だけど彼女に言わせれば俺が従弟なんだそうだ。いや俺の方がずっとしっかりしてると思うんだが。
その従妹はいかにも華奢(きゃしゃ)だし肌も真白くて、日に当たったりしたらそれこそ本当に倒れそうだと思う。だから挨拶も忘れるほどに思考に没頭(ぼっとう)した、というのは言い訳にならないかもしれないが、それはさておき彼女は微笑んで、やんわりと俺の言葉を否定する。
「ふふ……いくらなんでも倒れたりはしないよ。ちょっとふらっとしたけど」
いや、ふらっとしたのかよ。
並んで歩くは商店街。その角を曲がると登り坂。帰りは楽なんだけど、行きはちょっと大変な。昨年も経験しているとはいえ、この季節はやっぱりちょっとしんどいものがある。で、隣を見ると従妹は今にも溶けそうっていう顔をしていた。
「それにしてもあついよねー」
でも出てくるのはそんな普通の台詞(せりふ)。
「もうちょっと面白く」
「……ふぇ?」
「それだ!」
「由葵君……ちょっとよく分かんない」
擬音語っていいよね。
まだまだ大人しい夏の陽射しが徐々に強くなっていくのを感じながら学校へと至る坂道を登る。全く登下校とはよく言ったものだと思う。
「そういえば」
ふと隣を歩く従妹が口を開く。
「ん?」
「由葵君、期末テストどうだった?」
この暑さにもさほど疲れてはいない様子の彼女は、(少なくとも俺にとっては)精神衛生上できる限り避けたい類(たぐい)の話題を口に出す。
いや、身体へのダメージに加えて精神的なダメージまで被るなんて、正直勘弁願いたい。
そう思いつつも試験中の思考を反芻(はんすう)しようとし、
「……まぁまぁなんじゃないかな」
即座に適当な返事でお茶を濁(にご)すことに決定、そしてその通りにした。
果たして理由など問われるまでもない。思い出したくないからに決まっている。
「今、なんで詰まったの?」
が、隣にいる従妹がそれを許さなかった。
「ちょっと思い出してただけだよ」
「悪かったんだよね?」
間髪入れることなく続く言葉が記憶を抉(えぐ)る。
「……はぁ。どうして由葵君はちゃんと勉強しないのかな。ちゃんとやればできるのに」
次々と刺さる棘(とげ)、棘、棘。呆(あき)れたように溜飲(りゅういん)一つ、ふいと首を背(そむ)け視線(しせん)を逸(そ)らせ、遥(はる)か彼方(かなた)景色の先に焦点が合わせられる。焦点が合っていないとも言う。
痛い。心が痛い。
そりゃあ、成績が悪かったのは確かだし、咎(とが)められても仕様がないとは思うのだけれど、何ゆえあなたはそう遠くを見つめるような表情で責(せ)め言(ごと)を繰(く)るのですか。
額から伝う汗は暑さの所為(せい)だけじゃないだろう。
本当に心が痛い。
あまりに心が痛かったので、言葉を滑(すべ)らせた。
「俺のことなんて別にいいだろ。成績が上がろうが下がろうがどうだって……って」
うっ。
唐突に突きつけられた下からの睨(にら)むような視線に思わず息が詰まった。ところでその、目尻(めじり)目頭(めがしら)に溜(た)まってるのは、何ですかね……なんでそんな顔するんだよ畜生め。
諸手(もろて)を顔の高さまで緩(ゆる)く挙げ、降参の意を示す。
「悪かった、俺が悪かった」
テストの点も悪かったけどな。流石(さすが)にそれは言わないが。今このタイミングじゃ洒落(しゃれ)にならん。
「ちゃんと勉強する?」
「……ああ」
ようやく機嫌(きげん)が直ったか、はにかみ、
「よろしい」
と、一言。そうして軽い足取りで前を歩いていく。スカートの裾(すそ)も楽しそうに跳(は)ねる。いや、別に中が見えたりとかしませんよ。ていうかそもそも従妹だぞ。ないない。
ところで、その従妹の左手、朝陽(あさひ)が反射してきらりと光が閃(ひらめ)いたのだけど、それは何ですかね。青色の小さなボトルのような雰囲気を感じますが。しかも何たら製薬とか書いてないですか、それ。
その従妹は道の前方、もう既に右手に曲がって校門の奥に見えなくなってしまったが、間違いない。
目薬だった。
さて、見事従妹の奸計(かんけい)に嵌(は)められたところで、校門を通過。
まだここから下駄箱までがちょっと長いんだよな、うちの高校。
グラウンドが無駄に広かったりするし。省スペースっていうか、もうちっとコンパクトにすればいいものを。
とかなんとか言いつつも、他の季節には桜が綺麗だったり公孫樹(いちょう)が綺麗だったりするからなかなか気に入ってたりするんだけど。それでもやっぱり夏と冬は辛いと感じるんだ。
ふと、傍らの少女がおもむろに口を開く。
「そういえばさっき心配してくれた……んだよね」
「え? あ、あー……まぁ、うん、その、何だ。ま、暑いしね。俺もちょっとだるいから。季節の変わり目にはお互い気をつけような」
「……ん。ありがと、由葵君」
口調は控(ひか)えめ、だけど顔には満面の笑み。
そんな顔されるとなんていうか照れるんだけど、照れるっていうのは基本的に悪く思ってないってことだから、要するに嬉しいのか。
よし、んじゃ。
「もっと言って」
「ふぇ?」
「もっと言って」
従妹はしばし沈黙し、しばらく後、呆れたように口を開く。零(こぼ)れるのは溜(た)め息(いき)交(ま)じりの言葉のきれ。
「由葵君さ、もしかしなくてもお馬鹿さんだったりする?」
凹む。
透明な声でそう言われると本当にそうなのかと信じてしまいそうになる。いや、多分本当にそうなのだろう。
と、そこでふと丸まった俺の背中、その後に嫌な気配を察知(さっち)した。
東の空から少しずつ少しずつ南天高くに座(ざ)そうと昇る陽(ひ)の灼光(しゃっこう)にも、もしかしたら勝るのかもしれない。
「おっ、バカップル捕捉ー!」
……底抜けに明るく、平たく言ってしまえば能天気な。
「俺は馬鹿だがカップルではない」
「あ、立ち直った」
度を越えた熱量や光量はときにうるさいと評される。多分彼女もそうだろう。明るさも過ぎたればただの公害。
「杏音ちゃん、おっはよう!」
そしてそういうのは大抵、実際本当にうるさかったりする。
「あ、おはようまひろちゃん」
まひろ。正しくは日向野(ひがの)まひろ。よく言えば明るく快活、でもまぁ要するに能天気でうるさい。だいたい名前からして能天気だ。日向(ひなた)の野に、平仮名でまひろ。名は体を表すって本当なんだなぁと尽々(つくづく)思った。薄く茶色に染めた髪はちょっとハネ癖があって、襟足(えりあし)が外側に向いていて、それがまた性格に似合うというかなんというか。ストレートに言えばバカっぽい。
さて、俺としてはこの暑いのに相手なんてしていられない、というのが正直な感想で、その正直な感想にこれまた馬鹿正直に従うことにする。
「……おす」
要するに適当に挨拶する。暑いし。
「なになに、ゆっき。ちょっと元気が足りないんじゃない? まひろちゃんが元気出させてあげよっか? うりうり」
案(あん)の定(じょう)絡まれた。
「遠慮(えんりょ)しと……いや遠慮しますさせてくださいさせろっつってんだろこのやろ」
脇腹(わきばら)目掛けて捻(ね)じるよう抉るように繰り出される手刀(しゅとう)をかわしつつ抗議の弁(べん)をのたまい散らす。どうせ聞かないから多少口が悪くたって気にしていられない。
「あ、あのさ、二人とも、恥ずかしいからやめようよ。ほら、皆こっち見てるよ……?」
従妹から制止の声が掛かった。
言われるままに視野を展開、視界を回転。見れば、登校の足を止めることなく、横目でちらちらと、控えめに遠慮がちに、でも口元にくすりと笑いを零しながら、あるいは、やはり歩きつつ横目で、あからさまににやにやと生暖かい笑みを浮かべながら、あるいは何故だか敵意を込めつつ木の後ろから、校門の影から、自転車置き場の隅から鋭い目つきで、騒がしいやりとりをしていた俺たちに向けて注がれる視線の数々。
「あ」
「う」
痛い。
視線が痛いだなんて、視線に物理的圧力でもあるのかよ、と思っていたのだが、まさしく痛い。刺さるようなだなんて、視線に物理的中略、本当に刺さるよう。いやさっきも従妹から刺すような視線を注がれたばかりなのだけど。
乾いた笑みを張り付かせて硬直するまひろ……と、俺だった。
「一番恥ずかしかったのは見てる私なんだからね」
一番痛かったのは従妹の抗議だった。多分まひろも同意見だろう。などと思っていたら、
「ゆっきが朝からしけた顔してるからいけないんじゃない」
と全面的に責任をなすりつけられた。いやうるさくなったのはまひろの所為だろう。言わないけど。言ったらまたうるさいに違いないから。
そんな表層下の感情遷移(せんい)を悟(さと)られないよう表情操作に励(はげ)んでいると、自転車置き場の方から見知った顔がやってきた。
「おはよう、杏音ちゃん、由葵君。それから、まひろ」
この暑い中柔らかい微笑を全く崩すことなく朗(ほが)らかに挨拶してきたのは、従妹や能天気に比べると少し背が高く、さらさらと長く綺麗な艶(つや)のある黒髪をした、少し大人びた雰囲気の女生徒。その顔には豊かな知性が見られ、落ち着きのある振る舞いは奥ゆかしい色気を感じさせる。美人といって差し支えないだろう。
「おはよう、遥香(はるか)ちゃん」
遥香。苗字(みょうじ)は芹沢(せりざわ)。この辺にはあんまりなかったりして、初め聞いたときは結構珍しがったりしたものだ。割と語感とか字面(じづら)とか格好が良いし。
しかしこれまた容姿に相応(ふさわ)しいというか……どこかの能天気ガールとはあまりに対照的なのでなおさらに面白かったりする。
「うす」
まぁ、それでも適当に挨拶するんだが。
すると適当に挨拶された――とは言っても俺にではなく、芹沢に、だが――まひろがごねだした。
「あたしだけなんかついでみたいなんだけど」
「自転車置き場に自転車めてくる間くらい待っててくれてもいいのにね」
「……ごめんなさい」
一瞬で敗北した。
そういえばまひろと芹沢はいつも一緒に登校しているはずだった。芹沢は駅向こうの結構離れたところに住んでるから、自転車通学なんだっけ。途中で徒歩通学のまひろと合流して、そこから歩いてきてた……のだったと思う。
何でこんなに詳しいかって?
別に詮索(せんさく)したわけじゃない、まひろと芹沢はうちの従妹と仲がいい。バリューセット。誰がポテトで誰がドリンクかは知らない。というかそれこそ多分どうでもいい。
ともあれ、そういう理由で俺も自然仲良くしている、ただそれだけのことだ。よくからかわれたりもするんだが、そういうことは断じてないぞ、と。
それはさておいても、とりあえず分かってることは芹沢を怒らせると怖いってことだ。
ま、普通は友人を自転車置き場に残したまま一人で昇降口にすたすた行ってしまうなんてことはないわけだし、その辺の心配はないんだが。ま、普通は。
それよりも、だ。
「ところで、今日も暑いのに何でそんな涼しそうな顔してるんだ?」
唐突に思い出した疑問を投げかけてみた。
「別に涼しそうな顔をしてるつもりはないんだけど……暑いときに暑い暑いって言ってたら余計暑くなるような気がしないかしら?」
分からないでもない。でも暑いときは素直に暑いって言いたいのが人情だと思うんだ。それを伝えたら「私の前では言わないでね。暑いから」と無下(むげ)に却下(きゃっか)された。何だ、芹沢も暑いのか。
そんなことを言いながら歩いているうちに下駄箱に着き、校舎に入って日が当たらなくなると、ようやく従妹が少し元気を取り戻した。さっきまで口数が少なかったのはやっぱり直射日光が辛かったんだろう。
ところで、話題を極力テスト関係から遠ざけよう、という共通の目的を持つ俺とまひろは一時同盟を組み、従妹や芹沢に取りとめもない適当な話題を振ってその場をやり過ごした。こっちの場合は猶予(ゆうよ)が結構長く、まひろの場合は本当に一時しのぎだったりするんだが、本人も別に気付いていないようなのでこのままで。いや何がって便利だし。
ふと、目の先に七組と書かれた札があった。どうやら着いたようだ。
従妹は七組教室の前の入り口より一歩手前、つまり六組教室の後ろの入り口のところで立ち止まりこちらを向く。どういうわけかいつもちょっと寂しそうな顔をするんだよ。別に今生(こんじょう)の別れってわけでもあるまいに。
「じゃ、またね由葵くん、まひろちゃん、遥香ちゃん」
「ん」
だからあえて俺は短く、片手を挙げて応(こた)えるだけに留(とど)めて、
「またね!」
と元気良く手を振り明朗にまひろが返事し、
「すぐ会えるんだけどね」
芹沢はそんなまひろに対して苦笑気味にぼそりと呟(つぶや)き、そうして従妹は教室へ、俺たちは一歩だけ先へ。
従妹だけ教室が違う。まひろと芹沢は俺と同じ二年七組。だからいつもここで一旦別れる。といってもすぐ隣の教室なわけで、だから彼女のあれはちょっと過剰だと思う。
だからそこでにやにやするなまひろ。いい加減慣れたけど。
それにしても教室に来ると眠くなるのは何でだろう。昨夜(ゆうべ)も別に夜更(よふ)かしをしたわけじゃなし、寝不足気味ということもないはずなのに。しかしながら結局はいつもどおりそれ以上深く考えず、欠伸(あくび)をかみ殺して教室に入る。
「さて、と……寝るかな」
「いや授業受けろよ」
ええい、うるさいな。
俺は寝るんだ。授業が始まるまでの数分間は貴重な睡眠タイムなんだぞ。
そう決め込んで、窓際最後尾の一つ前という絶好のポジションにある自分の席に着くなり、鞄を机の横に掛け、腕の上に伏(ふ)してゆっくりと瞼(まぶた)を閉じる。おやすみなさい。
途中「やれやれ」というまひろの呆れ声を聞いたが、いつものことだ。芹沢も相変わらず苦笑気味に眺めているだけで、まひろの声に賛同するともしないともつかない曖昧(あいまい)な様子だった。結局何が言いたいかといえば、日々平穏だなぁ、ということなんだが、しかしとりあえず眠い。息をゆっくり吐き、ただ心安らかに、流れるままに任せて、すう……すう……。
で、始業前のショートタイム、いわゆるホームルーム開始のチャイムが鳴っても俺は机に突(つ)っ伏(ぷ)したままでいた。やがて担任が教室にやって来る。続いて「きりーつ!」という能天気な号令。ああ、この声聞くとちょっと安心。今日一日も平和そうだなぁとかね。
「きをつけー!」
って、号令か。起きないと。
重い身体を無理矢理起こし、立ち上がる。
「れいー!」
一同、皆不真面目に頭を下げる。まぁ、形式だしね。
「ちゃくせーき!」
ていうか寝てても気付かれなかったかもしれない。でもまぁ、形式だしね。
さて寝るぞ。ということでおやすみなさい、俺。
そして俺は馬鹿だった。
始業のチャイムと同時に一時限目の担当教師が教壇に上がる。そして、号令が掛かる直前に気が付いた。
もう一度起きないといけないということを。
「きりーつ!」
いつもの、何気ない情景。どれだけ繰り返されたかも、もはや分からないくらい習慣化した行為。
でも実際そんな毎日が心地(ここち)良かったりもするものだ。
昼休み。結局一時限目から四時限目まで寝倒した俺は、日頃の慢性的な睡眠不足が見事に解消されていた。当たり前だけど。いやね、寝る前にはいろいろすることがあるんだよ。一人暮らしってのはそこそこ大変なわけで。自分の身の回りのことだけとはいえ。
ともかく、そういうわけで活力全回復。むしろ「若いっていいね」ってところだろうか。それは意味が違う気がしないでもない。
とにかくエネルギーが余っていたので、俺は弁当箱を持って隣のクラスへ足を運ぶ。
俺が六組の出入り口を跨(また)ぐか跨がないか、それくらいのところで俺が向かおうとした席に座っている人物がこちらを向いた。
手を振っている。軽く手を挙げるだけで返事とする。そんな何気ない挨拶のやり取り。
席の前まで来たところで、その少女、つまり俺の従妹が声を掛ける。
相変わらずの高く澄んだ、か細い声。
「こんにちは、由葵くん」
隣にある空白の席から椅子を拝借し、向かい合う位置に置いて座り、昨日の晩に準備しておいた弁当箱を置くと、
「元気そうだね」
などといつもどおりの囁くような声で微笑む。
……誤解がないように一応もう一度言っておくが、エネルギーが余っていたから来ただけ、であって。
「今朝は眠そうだったってまひろちゃんが言ってたよ。『死んだ魚のようだった』……だったかな」
微妙に違わないか、それ。
「ここのとこずっと寝不足でさ。これ作ったりしなきゃいけないし。んで、そういうわけだからさっきまでたっぷり寝させてもらったら、睡眠不足は解消されました、と。そういう杏音の方こそ、身体の調子とかどうなんだ。朝、だるそうだったろ?」
……何度も言うようだけど、エネルギーが余っていただけ、だからな。
「私も大丈夫。教室の中は、外ほどは暑くないし」
「そか」
で、弁当箱の中身を突付きながら、他愛のない話を。
「それより授業、寝てて平気なの?」
「どうせテストの回答の返却くらいだしなー」
「……そういえばテストの点、どうだったの?」
地雷を踏(ふ)んだ。
「ま、まぁ、いつもどおり」
とりあえず誤魔化(ごまか)してみる。
「本当に?」
無駄だった。
そういえば休み時間中、まひろが芹沢に何か言われていたような気がする。ああ、そうか、あれは今の俺と同じような状況にあったわけか。南無。他人事だと思ってすっかり忘れていた。
とりあえず素直に謝ってみる。
「いや予想通り悪かったですごめんなさい」
「わたしに謝られても」
呆れられた。
ところで、こうやって一緒に弁当を食べたりするくらいに仲がいいと、他人からすれば「二人は付き合ってるのかー?」くらいには思うんだろうけど、俺と彼女は従兄妹同士。一緒に食事くらいするさ。
視線が気になったりしないでもないが。
べ、別に付き合ってるとかそういうのじゃないんだから!
……誰に断ってるんだか。
「どしたの?」
「いや、何でもございませんよっと」
怪訝(けげん)そうな視線を向ける少女をよそに、俺は弁当箱の中身を突付く。
「あっ……!」
俺が箸に摘んだそれを口に入れた瞬間、彼女は俺の顔と自らの弁当箱を交互に見遣(みや)り、思わず、といった感じで声を上げた。
「どしたの?」
俺の従妹に、とりあえず何があったか尋ねてみる。
「や、私の真似(まね)とかいいから──じゃなくて! そ、それ、わた……私の……っ! 楽しみにしてたのに……」
どうやら彼女がいつになく勢いよく喋(しゃべ)っているのは、今ゆっくりと俺の胃袋に向かっているこのカレーコロッケによるようだ。無論、自分の弁当箱に入っていたものではない。
というかカレーコロッケが好物らしい。
知ってたけどね。
しょんぼりと項垂(うなだ)れる従妹に、やっぱりとりあえず、適当に声を掛けてみる。
「死んだ魚の」
その続きは目に見えない力に圧(お)された為、飲み込むことにした。ああ、睨(にら)まないで。怖いから。これを見ては静かな怒りを実感せざるを得まい。
しかし旨(うま)いカレーコロッケだった。
で、午後の授業は眠気も全くないし疲れてもいなかったので、とても真面目な態度で臨(のぞ)んだ。
当然ながら態度だけというわけもなくちゃんと真面目に授業を受けていたので、そこ、疑いの視線を向けないように。
これは俺の持論なんだけど、学校のテストっていうのは日頃どれだけ真面目に授業を受けているかを確認する為のもので、授業さえちゃんと受けてれば赤点どころか平均点は堅いはずのもの。
などと、隣の席に座るクラスメイトと話していたら、どういうわけか知らないが俺の席の前に勝手に座っていたまひろに口を挟(はさ)まれた。
「午前中寝てた人間の言葉とは思えないわね」
「うっさい」
「はいはいっと」
すると、呆れたような顔をして去ってしまった。何しに来たんだあいつ。そもそも何でここにいたのかがまず謎だが。
……で、だから基本的に俺は授業は半分は真面目に受けている。半分真面目に受ければ平均点くらいは取れるだろうから。
そういうわけで、この学校に入って以来一度も追試を食らったこともないし、補充を受けたこともありませんよ、と。
ちなみに補充っていうのは赤点を取ってしまった人間が受ける補習授業のことで、うちの学校では補習は「自主的に参加するもの」で、一方で「強制的に受けさせられるもの」を補充と呼んで区別しているようだ。他の学校はどうか知らないけどね。
それはともかく、六時限目の授業が終わり、帰りのショートタイム、略してSTを待つ。
大抵の場合、英語を担当するうちのクラスの担任が六時限目の授業をサービス延長してくれるものだからこれに遅れるんだけど。どうやら今日もそうらしい。
今日何曜日だっけかな。ああ、火曜日か。ということは隣だな。というかすぐ隣から担任の声が聞こえてくるし。間違いなくいつもの延長か。
六組生徒諸君。さっさとうちの担任を帰してあげてください。俺が帰れません。というか彼らも被害者か。南無(なむ)。
そんなとてつもなくどうでもいいことを考えていると、だ。不意に後ろの席から声が掛かった。クラスメイトBだ。
「今日お前よく寝てたよな」
今更かよ。
いや違う。確かこいつ、休み時間の度にこうやって聞いてきてたのか? てことは今日何回目だ。ところが俺は殆ど夢と現(うつつ)の狭間にいたので憶えていないのだが。まぁ何回にせよ暇なやつだっていうことだけは間違いない。
「……昨夜遅かったんだよね。いや昨夜だけじゃないが。あと、坂」
とりあえず当たり障(さわ)りのない無難な返事を返しておこう。
「あー、お前ん家って坂の下だっけ。そりゃご苦労だな」
他人事みたいに言いやがって。
お前はこの夏の日差しの中歩いて上るあの坂の辛さが分からないからそんなことを言えるんだ。
と言ってやりたいところだが、それは俺のイメージに反するので止(や)めておく。いやこれでも一応いろいろと気にしてるんだぞ。ちょっと俺の立場は微妙だからな。
お。
ようやく隣から号令。聞き慣れた高く透明な声。六組の号令係は俺の自慢の従妹だったりする。いや自慢するものでもないか。
程なくして、担任が入って来る。
「おーすまんすまん、遅くなったなぁ」
頭を掻(か)きながら、人の良さそうな笑みを浮かべてただ平謝り。
怒る気になれないんだよね、当人に悪意が全くないから。
まぁ、だからこそ余計に性質(タチ)が悪いんだけどさ。
ところで何度か触れたけれど、この学校は坂の上、というか坂の途中に建っている。
というかこの街自体坂が多い。山を無理矢理街にしたようなところだから無理もないんだけど。坂の上と坂の下の両方に住宅があって、坂の上だからって別に高級住宅街というわけでもないし、坂の下だからどうのということもなく、本当に必要に迫られたから両方に家が建ったっていう感じか。で、俺の家は坂の下にある。お蔭(かげ)さまで毎朝いい運動をさせてもらっているわけだが、あーくそ。
何もこんなとこに住まなくてもなぁ、と思うような地形だけど、それでもやっぱり俺は割とこの街が好きだったりする。
学校の帰り道にあるコロッケ屋とか。
脇道に入ってちょっと歩いたところにある林道とか。夏は涼しくていい。蝉が煩(うるさ)いけど。
それから、その先にある神社とか。
「それにしても暑いよね……」
隣にいる従妹が、溶けそう〜とか言い出しそうな顔でそんな普通のことを言う。
もっと壊れたキャラが見れると思ったのに、残念。
いや、朝も同じようなことを考えた気がするけど。
で、毎年こうだから突然今年になって変わっても何だか嫌ではある。
「もうすぐ涼しいとこに着くから。って何でコロッケ買おうとしてるんだ」
いつの間にか俺の遥か前方でコロッケ屋の主人に声を掛けている俺の従妹。
急ぎ足で坂を降り、角を曲がって商店街に入る。コロッケ屋は商店街の入り口。坂からでもよく見えるところにある。
補習なんかを受けると、下校途中小腹が空いているところにこのいい匂いが漂(ただよ)ってくるもんだから、ついつい買ってしまうことがあるんだけど。
この鬱陶(うっとう)しいくらいに暑い中でよくそんなものを食べる気になるなぁ。
感心しながら隣に着くと、しかし少女はじとーっとした視線を向けてくる。
「だって……誰かさんが私の昼ご飯から取っちゃったもん」
「はいはい、ごめんなさい」
そう言いながら、ご機嫌斜めなお姫様の為に財布から小銭を取り出して店の親父さんにに渡す。
「え?」
「奢(おご)る」
「え……? や、いいよっ……別にそんな」
ほらね。こうやって人の好意を素直に受けられないコなんだ、うちの従妹は。
「奢るったら奢る。いや、元々誰かさんが食ったんだから……『返す』かな。その誰かさんの代わりに」
「……くすっ。分かったよ。それじゃあ、お言葉に甘えさせて貰っちゃおうかな」
ふー、取り敢えずこれで食い物の恨(うら)みはどっか行った。
「相変わらず素直じゃないよね」
あなたには言われたくないです。
傍らの少女は、カレーコロッケをとてもおいしそうに頬張りながら、幸せを存分に表現したような笑顔をしている。あー、天使の微笑、っていうやつか。
自慢じゃないけど我が従妹は客観的に見て可愛い。従兄馬鹿かもしれない。
が、実際のところ人気がある。いや、人気があるのは容姿の所為だけじゃないらしいのだが。イコール、性格も人気がある。そうなのか? 性格のことはよく分からない。
ずっと一緒にいた所為か、その辺の感覚は分からない。
……いや一緒にいた所為だけじゃないけどな。
最近はあまりに平穏で忘れそうになっていたものの、ときどき彼女は突拍子もないことを言い出す。これまでそのお蔭で何度かちょっと大変な目に遭(あ)ってきたからなぁ。
ん、前言撤回(てっかい)しようじゃないか。性格に関しては疑問符がつく。いや、ここ最近は全然そういうことがないから別にいいのだが。
しかしながら、いずれにしたって今この瞬間は間違いなく、心和(なご)む美少女との下校、ということになるのだろう。少なくとも端(はた)から見れば。
なんだけど。
それでもやっぱりどうしても一つ納得いかないことがあって。
(見てるだけで暑いんだけど。いや見ない見ない見えない見えない)
何でカレーコロッケなんだ。ただでさえコロッケって食べ物は喉が乾くというのに。加えて辛味であり、そして、これはカレーとは関係ないけど揚げたてほかほか。
夏に食べるものじゃないよね。誰に言うでもなく、心の中で呟く。
そのカレーコロッケを昼に食べたのは俺だけど。あれは冷めてたからいいことにする。冷めたコロッケって割と好きだし。
「あー……幸せー……」
本当に幸せそうで何よりです。百円硬貨一枚と十円硬貨二枚っていう、何とも安い幸せなわけだけど。
しかしながら実際俺もそういう些細(ささい)な幸せにこそ至上の価値があると思うから何も言うまい。
「ふぅ……ごちそうさま」
「おそまつさま。返しただけだから礼とかいいよ」
「ありが、ってえーと、うん」
ありがとうと言おうとしたところで制されて言葉を失う。少し滑稽(こっけい)。
で、目の前に林道が見えてくる。あー、これで容赦(ようしゃ)ない夏の日差しから逃れることができるのね。助かった。
俺の家はこっちじゃないから用が済んだら引き返さなきゃならないんだけど、その頃には夕方になってて涼しいだろうし。
ちなみに俺が自分の家でもないところにわざわざこうして足を運んでいるのは、隣にいらっしゃる従妹を送るついでに今日寝てた授業で出た宿題をご教授願う為。
テスト返しだけにしておいて欲しい。だいたいもうすぐ夏休みなのにそんなにがりがりと宿題を出さなくてもいいじゃないか。
「というか、宿題って何であるんだろうな。特に夏休み」
「……学校で勉強できないから、じゃないの?」
それはそうだと思うけど。いや、むしろだからこそ、だ。
「夏休みって、暑くて授業にならないから休みなんだと思うよ。だから北海道は短いっていう。で、勉強できないから休みにしてるんだから、わざわざ勉強するのはおかしい」
「あ、えっと……なるほど」
反論しようとして納得して、言葉を失う。少し滑稽。
「いや、納得されたら会話が成立しないんだけど」
「でも……そうかも。確かに暑くて勉強にならない……ってあれ? 家なら冷房あるから勉強できるよね」
鋭い。その通り。が、それじゃ詰めが甘い。
「ところが夏休みは復習はしても予習は全くやらない。つまり、学校での授業と違って、全く前に進まないんだよ」
「?」
きょとんとした顔で一度はその言葉の意味を探ってみるも、依然(いぜん)不思議そうな顔をしたまま。言い換えてやる。
「要するに、四十日間、ずーっと一学期にやったことの復習だけするわけだ」
「それのどこが変なんだろ」
この従妹は俺の言いたいことを全く解してくれない。
「一学期の中間テスト、期末テストと赤点を免(まぬ)れた人間に取っては不毛かと」
「忘れるかもしれないじゃない」
そりゃそうだ。
「一夜漬(いちやづ)けした人はね。俺は違う。日頃から真面目に授業を受けてだな……」
そこでふと顔を横に向けると、隣にいたはずの少女がいない。
ああそうか。目的の場所を通り過ぎたらしい。
自分一人さっさと家に入っていくなんて。
とりあえず引き返してその家の玄関に向かう。少女の後姿を確認。うん、間違いなくここは従妹の家だ。叔父さんと叔母さんの家でもあるけど。
俺が戻ってきたのを確認すると、彼女はドアを開き、中へと入る。
「ただいまー」
続いて、俺も。
「お邪魔しまーす」
家に上がり、部屋へと向かう。玄関で勉強道具を広げるわけじゃないから当たり前だが。
「どこまで行くつもりだったの?」
「……神社?」
自分で言っておいて馬鹿な返答だと思う。
従妹の家は神社に通じる林道の途中にある脇道を入ったところにある。学校に続く坂道からは脇道の脇道の脇道に当たるわけで、えーと、とてもややこしいので考えないことにしよう。
「で、従兄を置いて一人でさっさと家に帰ろうとしたことは水に流そう」
「うんうん」
さして興味もなさそうな返事。俺も割とどうでもいいと思う。
「普段真面目に授業を受けている人間には夏休みの宿題はいらないんじゃないか、ということなんだけど」
従妹は思いついたように立ち止まる。
「お茶、持ってくるね」
振り向きながらそう言ってお茶を取りに行こうとする従妹を、捕まえもとい引き留める。
「人の話はちゃんと聞こう」
それに対し、彼女は露骨(ろこつ)に不信感たっぷりの顔で抗議。
「真面目に授業受けてる人は他人に宿題教えてもらう必要なんてないです。っていうか、授業中に寝ないです」
結局お茶を取って来た従妹が俺の前に座って、また何やら愚痴(ぐち)めいたことを言っている。
「大体、何で隣のクラスの人間に頼むかな。授業内容違うのにどうやって教えるんだか」
そんなに嫌そうな顔をしていないところが、彼女の良さであり弱さだと思う。つけ込まれても知らないよ。いや、そんなヘマをする程馬鹿じゃないか。
「んでも、実際頭いいし、問題ないと思うけど」
「問題あるかどうかじゃないの……! ていうか、あー……もう、やっぱり、いい」
半ば諦めたような、あるいは投遣(なげや)りな溜息を一つ。そして、
「それにしても暑いよねー」
と全く前後関係のない話題を振る。そして彼女はテキストを眺(なが)めている。つまり、やっぱり問題ない。
俺の従妹は、頭がいい。
単に学校の勉強ができるっていう意味でなく、本当の意味で頭がいいと思う。
賢いっていう言葉はそれに近いかもしれない。知的っていうのとはちょっと違うかもしれない。
どっちでもいいか。少なくとも俺は、頭がいいと思っている。
で、だ。こんなことは彼女にとっては何でもない会話をしながらでもできるってことで。クラスが違うだとかそんなことは、本当に問題にならない。
ところで、ふとその夏服の少女を見て、暑いっていうのも悪くはないな、と思った。
「暑いのはそんなに嫌いじゃないけどね。寒いのよりはマシかも。あと」
「?」
不思議そうに首を傾げる従妹。お、なんかこれ可愛いかもしれない。
「皆薄着し──」
パカーンという擬音語がよく似合う、そんな一撃を頭に頂いて──でもこういう平和なやり取りこそが、かけがえのないものなのだということを、俺は後になってつくづく思い知らされることになる。今はまだ、何も気付いていないだけだった。
夕暮れ。神社の鳥居の赤が周りの橙に滲み出すような、この時間が俺は結構好きだ。涼しいっていうのもあるけれど、そうじゃなく、黄昏時(たそがれどき)のこの雰囲気が好きなのだ。
「今日はサンキュ、な。だいぶ助かったかも」
玄関を出て、林道に出て、そこから商店街に出るまで、俺の従妹は見送ってくれる。
どことなく寂しそうに見えるのは、この夕暮れ時の雰囲気の所為だろうか。きっとそうだろう。どうせまた明日学校で会えるのだから、寂しくはないだろうと。
多寡(たか)をくくっていたのだ。
「じゃ、また明日な」
「うん、バイバイ……また、明日」
手を振る従妹に背を向けて。坂に並ぶ家々の屋根の向こう側に沈む夕日を見ながら、歩く。世界がオレンジ色に染まるこの時間。懐かしさにもよく似た感情が胸を締め付けるような。
橙(だいだいいろ)色の光にリラックス効果があるだとか、そんなことを聞いたことがあるけれど、この光景を前にしたら、割とどうでもいいことだ思う。
説明できない感情が今そこにあって、それを前にして、全ての科学が無意味なんだ。ただ、哲学だけが意味を為すのかも。
商店街を抜けて、再び坂道に着く頃には、オレンジ色の空の上の方に少しずつ藍色(あいいろ)の闇が侵食し始めていた。大きな夕陽(ゆうひ)は、既にその半分以上が地球の裏側に落ちてしまっていた。
青と橙のコントラスト。その境界のグラデーション。全く色相の異なるその色が滲(にじ)んで溶け合う様は、陳腐(ちんぷ)だけれど幻想的。
日常のすぐ隣、薄皮一枚挟んだ所に、そんな世界が広がっていても不思議じゃないと思えるような、そんな光景。
何気なく口ずさむメロディ。ゆっくり坂を下りながら。静かで落ち着いた世界の下で。もしかしたら、綺麗(きれい)で儚い幻想の隣側で。
家に着く。日はもう、殆ど地に埋もれてしまっていた。藍色の闇がカーテンのように、その上天からゆっくり垂れ下がっている。
大地と空の狭間だけが、ただ赤々と燃えている。その火が消えるのを確認するようにじっと見詰めた後、玄関の扉を開く。誰もいない部屋に声を掛ける。
「ただいま」
部屋に入るなりズボンのポケットの中で携帯電話が震え出した。当たり前だが別に寒いわけじゃない。
メールだ。誰からかと思ったら何のことはない。後輩だった。
〈ゆうやけ、みた?〉
しかも、何の用かと思えば、ただこれだけの内容。
この後輩はちょっと、というか結構変わっている。変人とは言うまい。だけど間違いなく変わり者だ。
一応返事を出す。
〈見たよ〉
これだけ。すぐに返事は返ってくる。
〈きれいだったよね〉
ああ、確かに綺麗だった。久しくこんなに綺麗な夕焼けはほとんど見たことがなかったと思う。柄にもなく思索(しさく)に耽(ふけ)る程に。
……そういうのはどっちかというと趣味じゃないんだが。
なんていうか、その行為は結局のところ格好(かっこう)をつけているだけで本質には触れていないし。それをしたり顔で人様に言うのもどうだろうと思うから。
まぁ、ときどきこうやって心を動かされたときくらいは『いいかな』とも思うしそれはそれでいいか。いいことにしよう。
〈そうだな〉
〈ただてつがくだけがいみをなすんだよね〉
……前言撤回。こうやってからかわれるんだよ、余計なことを言うと。
そういえばいつだったかこいつと一緒にいたときに、ぽつりとそんなことを漏らしたこともあったかもしれない。
そこへ慌ててフォローするようにメールが入る。
〈べつにからかってるんじゃないよ。あのときはじゅんすいにぼくもかんどうしたんだ。あのことばはぼくのごろくにしっかりきざみこまれているのです〉
どうでもいいが変換しろ。読みにくい。
〈どうでもいいが変換しろ。読みにくい〉
ついつい思ったとおり内容を送信してしまった。別に気にはしまいが。
〈めんどうだもん。で、さ。さいきんかんがえたの。もしかしたら、このせかいのすぐちかくにもうひとつせかいがあって、だからゆうひがきれいなのかな、って〉
ああくそ、読みにくい! 脳内で変換しよう。
〈面倒だもん。で、さ。最近考えたの。もしかしたら、この世界のすぐ近くにもう一つ世界があって、だから夕陽が綺麗なのかなって〉
ふむ。
『この世界のすぐ近くにもう一つ世界があって』と『だから夕陽が綺麗』が対応しないということだけはよく分かった。
逆なら分からなくもなくはないでもないが。おっと、否定しすぎて逆になった。
夕陽が綺麗で幻想的だから、もしかしたらそこに幻想的な世界があるかもしれない、っていうの。何ていうか夢があるじゃない。杏音が好きそうなことだけど。
ああ、しまった写真に取っておけばよかった。そしたら喜んだろうに。……いや、もはや今更かもしれないが。
〈夕陽が綺麗な理由を説明するとして、もう一つの世界があるから、じゃ理由になってないだろう〉
返事がもう来やがった。相変わらず平仮名。
しかし、俺が返信して間もなくその返事が帰ってくるのはどういう仕組みなんだろう。杏音とメールをすると返事が来るまでに五分は掛かるというのに。
ああ、杏音が特別遅いだけか。手も小さいし。いやそれは関係ない。
さて、読みにくいことこの上ない平仮名メールを脳内で変換。
〈もう一つある世界がとても綺麗な世界なんだ。ときどきその世界を、目で確認できる。それが夕焼けとか、朝焼けとか、オーロラとか、そういうの。夢があると思わない?〉
ああ、なるほど「あれが異世界のものだ」って言ってるのか。納得。そういうことなら俺の意見とほとんどど変わらない。
〈なるほどそうだな。ところで、それだけか?〉
〈うん〉
……どっと疲れた気がする。
〈忙しいから勘弁してください〉
〈ごめんなさい〉
実際、家のこととかしないといけないし。食事の準備とか、洗濯物(せんたくもの)仕舞ったりとか。
夕焼けは確かに綺麗だった。でも今はそれよりも今日の夕飯は何にするか、そっちの方が重要な議題なんだよね。
***
……生きるっていうことは、その不条理な流れに翻弄(ほんろう)されながら、それでも前へ進もうとすることなんだと思う。
十七年しか生きていない俺が偉そうに言えることではないと思うのだけど。
思うのだけど、それでもなお俺はこう思う。
まるで、主題の見えない変奏曲のように、俺達は生きている。